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9,イリソス河のほとり:モーツァルトとソクラテス

最終回は、スイスの哲学者アミエル(1821-81)の一文をもって締めと致しましょう。  死後にその日記が公開され、「心が変われば態度が変わり、態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば人生が変わる」「他の人を幸福にすることは、いちばん確かな幸福で...

8, モーツァルトとかけて老子と解く、その心は

いつだったか、ある女性の受講生が、彼女の属している読書会を仕切っていた物知り顔のリーダーから「あなた、何者」と怪訝な顔で問いかけられた話をしてくれたことを思い出しました。私はテキスト『論叢』(聖徳大学言語文化研究所20)冒頭で、モーツァルトについて語ろうとすることは、ソクラ...

7,モーツァルト交響曲「短調」の秘密

前回は、聴いていただいた交響曲40番ト短調について、自分の葬儀の時にはこの曲をかけて欲しい、と言う方が複数いた話が紹介されました。モーツァルトの曲のうち、短調は1割に満たず(全作品626曲中19曲=3%、交響曲45曲中2曲=4.4%)、との話もいただきました。...

 6,「こんな音楽ってないね」

「モーツァルトとの最初の出会いは、戦局が深刻になった昭和十九年(1944年)のことである。当時私は旧制の東京都立高等学校(都立大学の前身)に通っていた」と著書『モーツァルトと日本人』で書き始めた文芸評論家の井上太郎は、戦時ながら当時の自分を、芥川龍之介が言ったという「哲学者...

5,宇宙へ届け!モーツァルトへのオマージュ

前回は、「勇ましさよりもそこはかとないかなしみがある」トルコの軍隊音楽のようなオリエントの香りをモーツァルトの音楽に感じる、とのお話がありました。そう言えばモーツァルトが26歳のときに作曲したオペラ『後宮からの誘拐』は、トルコの後宮(ハレム)から恋人を連れ戻す物語で、音楽も...

4,悪魔のいたずらか神の奇蹟か

前回は、モーツァルトの音楽の「かなしみ」は、万葉集の歌人の「かなしみ」と同じである、との小林秀雄の意識に対して、感じること=直観は人それぞれに違いがあり、小林秀雄の感じ方と私達の感じ方を等しく論じることはできない、といった議論がありました。映画『アマデウス』の話や、帝国劇場...

3,モーツァルトとかけて万葉のかなしみと解く

前回は、原先生から、モーツァルトの音楽には「意表をついたハーモニーや転調」があり、「えっ、どこに行くのだろう」との「驚き」の表現があることをご教示いただき、意表をついた問いによって、相手を思いもかけない方向へと導くソクラテスの問答法を思い浮かべました。今回は、「僕の乱脈な放...

2,哲学の入り口:他者への「共振」

前回は、アリストテレスの「徳」(アレテー)まで登場する皆さんのお話に、大いに「共振」させてもらいました。メルケル政権の時代、「アーティストは、生命維持に必要不可欠な存在」と大胆なアーティスト支援策が発表されたことをご教授いただきました。...

1,音楽は、筆舌に尽くせないもの

著作「ほとんど無」で知られるフランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレビッチ(1903ー1985)は、「分類できない哲学者」とまで言われる稀有な存在です。ピアニストでもある彼は、音楽のあるべき形をソクラテスに語らせるプラトンの対話編『国家』などからの引用が多々見られる音楽を題...

10、ファイナルアンサー

前回、「もう一人の私」にあげている心の無限後退について、お一人から、人間はいずれ死を迎える有限な存在だから、無限になることはあり得ない、とのご指摘をいただきました。また、お一人からは見る位置によって物事は多彩な顔を見せることを示す格言「虫の眼、鳥の眼、魚の眼」を頂戴し、考え...

9,Dasein=「いま、ここ」存在、としての私

前回の桜をテーマとした講座で、皆さんの知見と洞察に感激しました。「馬下りて 高根のさくら 見付たり」(与謝野蕪村)についてのお一人のご指摘、「馬を下りる」は視点の変換を表しており、立ち位置を変えるだけで世界の見え方がガラッと変わり、新しい発見がある、には感服しました。「さま...

8,閑話休題:ひさかたの光のどけき春の日に…

前回は、桜をテーマとして、皆さんの話で大いに盛り上がりました。前回の記法を使えば、次のようになりますね。 桜with 「(哲学講座住人)」 恥ずかしながら、春と秋に咲く2期咲きの桜=10月桜、があるなどとは、とんと知りませんでした。桜の歴史を調べると、野生種としてヤマザクラ...

7, 「気づき」とは何のことかとハイデガー

テキスト「『持つ』の形而上学-フロム、芭蕉、アリストテレス、ハイデガー、レヴィナスをつなぐ点と線」の「五、ハイデガー存在論との接続」(pp.58-63)で、環境世界としての自然がそこに出会う人々によってさまざまな名前を付けられて存在することを示したハイデガーの考察から、俳人...

6,中村草田男×アリストテレス

前回は、「フラフラ歩きで偶然の発見」を期待する私の講座のコンセプトをお話しするのに時間を割いて申し訳ありませんでした。今回は、テキスト<「持つの形而上学―フロム、芭蕉、アリストテレス、ハイデガー、レヴィナスをつなぐ点と線>に戻って、テキスト四「アリストテレス存在論との接続」...

5,考えるという重い病気

前回、アリストテレスが『形而上学』の冒頭にあげている人間の本質「知りたがり」による私たちの「知識」が、逆に「自己を束縛」する疎外状態に追い込んでいる、とのエックハルトの主張をあげました。「我思う、故に我あり」の発見によって、私たちの存在を保証するものが「思う」(デンケン=考...

4,我を忘れてひたすら走れー「平和」に向けて

フロムは、ドイツ・ドミニコ修道会の神学者マイスター・エックハルト(~1260-~1328)のことを「持つ存在様式とある存在様式との違いを、いかなる教師も凌駕しえない洞察力と明晰さをもって記述し、分析している」と始めています(フロム『生きるということ』紀伊國屋書店、p.91)...

3,疎外が生む理性の堕落

二句:春講座あれもこれもの入道雲 蟻さんよ蜜はいつも今ここに フロムは、マルクス関連の記述で、進化論のダーウィン(1809.2.12 – 1882.4.19)が陥ったある状態の説明から入っています。30歳になるまで熱中していた音楽や詩、絵画への興味をダーウィンは進化論の研究...

2,よくみればなずな花さく垣ねかな

「ある」と「持つ」の違いを、フロムは「芭蕉」の次の句を使って説明しています。 よくみれば薺(なずな)花さく垣ねかな 芭蕉が43歳のとき、貞享三年(1686年)に詠んだ句です。フロムは、芭蕉は「おそらくいなか道を歩いていて、垣根のそばにあるなずなに気づいてこの句を詠んだ」と鈴...

1,「To have or To be? That is the question」

私が今回の講座のテキストとして皆さまにお渡しした 「持つ」の形而上学-フロム、芭蕉、アリストテレス、ハイデガー、レヴィナスをつなぐ点と線(『聖徳大学言語文化研究所 論叢』10) で引用しているエーリッヒ・フロムの『To have or To...

令和6年度第Ⅰ期SOA講座 哲学サロンーアリストテレス・芭蕉・ハイデガーをつなぐ存在の秘密

「よく見ればなずな花さく垣ねかな」-松尾芭蕉のよく知られた俳句ですね。これがなんと、アリストテレスからハイデガーまで、さまざまな哲学者が七転八倒して考えぬいた、「存在」の秘密を解く鍵になっているとは、お釈迦様でもご存じないでしょう。ほかならぬ私「哲学の語り部」が、この問題を...

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