4,靴下ぬいでご覧:太宰治
- 和行 茂木
- 11月13日
- 読了時間: 3分
「哲学とかけて料理と解く、その心は?」のテーマで、前回は大いに盛り上がりました。私の「奥が深い」に対して、「哲学も料理も、まぜこぜの妙」「ときにはベーコンも」(哲学者フランシス・ベーコンと食べ物のベーコンをかけた)「ときには当たり、下痢することもある」など、なかなか洒落た「心」を頂戴しました。
「個」と「孤」をめぐる問題から、アリストテレスの「アレテー」(徳)の話、また、老子の「自然(じねん)」的生活を岐阜・伊那谷で実践している加島祥造の話も出ました。本日は、芥川龍之介の長男で俳優・演出家の芥川比呂志が太宰治から受けた気遣いのことを紹介したテキストp.48の逸話(失礼、ここでは龍之介の三男、作曲家の也寸志と間違えて書いています)を種に、おしゃべりの効用について「おしゃべり」しましょう。
芥川比呂志は、こんな小話を書いています(「笑いたい」桂米朝編『笑』作品社、pp.20-23)。
日本の軍隊での慰安会で、落語「狸賽」「時そば」を披露して大笑いをとった初年兵が、ゲラゲラ笑ったはずの鬼兵長から消灯後に猛烈な往復ビンタをくらい、心配した仲間に「笑う門には鬼来る」と落ちで答えた話の次に、紹介している実におつな話です。
20年の昔、宴の座敷で皆の話についていけず、笑い声が絶えない中で一人無言の気まずい思いをしていた芥川に、その座の主人が微笑みながら、「きみ、靴下をぬいでごらん、楽になる」と声をかけてくれました。虚をつかれ、半信半疑でその通りにしたら、憑き物が落ちたように楽になり、おしゃべりの輪に溶け込むことができた、と芥川は書いています(pp.22-23)。青森県金木町のその家の主人は、太宰治、と“落ち”をつけて小話は終わっています。
青森県北津軽郡金木村(後の同郡金木町、現在の五所川原市金木町)に、県下有数の大地主の六男として生まれた太宰が、芥川に示したこの「心遣い」が、いつのことなのか、残念ながらわかりません。ま、ともかく、この逸話は、おしゃべりが「仲間と認められて」初めて参加できる、言い換えれば、「仲間であること」がおしゃべりに加わることの条件、ということになります。
「伊那谷の老子」加島祥造に『受入れる』なる著作(小学館)があります。「はじめの自分」(自然の自分)と「次の自分」(社会の自分)をテーマに綴られたこの作品は、老子の「川の流れに身をまかす」まるで美空ひばりの歌を思わせる生き方の本質として「何事も受け入れる」ことにある、ことを説いているのです。
この著作には「受け流す」のことも触れています。
これは「受けいれる」を洗練させた態度さ、いやな事やいやな人をまずは受け入れて、あとは放っとくことさ、たいていは、留まらずに、流れ去ってゆくよ」(同書pp.106-107)。
この講座でも、皆さんは、お互いの話を受け入れてくれ、場合によって「受け流し」、おかげで講座は円滑に回っています。
感謝のほか、言葉がありません。




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