1,さあ、おしゃべりの始まり
- 和行 茂木
- 9月30日
- 読了時間: 3分
テキストの「しゃべり場の思想」を開いてください。アウグスティヌスの時間に関する有名な言葉「誰もが時間が何かを知っている。しかし、時間とは何かと聞かれると誰も知らない」をもじって、「誰もがおしゃべりが何かを知っている。しかし、おしゃべりが何か、と聞かれれば、そんなことは考えたことがない」と書いています(p.40)。実際、女性たちは「三人寄れば姦しい」とおしゃべりに興じ、男たちは酒の場でまるで「酒の肴」のようにしゃべりまくります。しかし、たぶん、そのようなとき、「おしゃべりって何だろう」などと考えることはないでしょう。
「ひとたびおしゃべりの場に入ってみれば、そこはまさしく別世界、無数の知が飛び交う異次元的な様相を人は見てとることだろう。むしろ、おしゃべりこそ、新しい発想や思いもかけない思考の転換をもたらす、豊富な土壌になっているのではないか、と考えるのである。実践的な体験を踏まえながら、おしゃべりが哲学にもたらす新しい可能性について、論考を進めてみたい」と、テキスト冒頭に私は書きました(pp.39-40)。本日は、「おしゃべり」の言葉がつくラジオ番組を題材に「おしゃべり」の哲学的可能性について、みなさんと「おしゃべり」いたしましょう。
ここでは九州で初の民間放送局として開業したRKB毎日放送の「おしゃべり本棚」おしゃべり本棚 - RKB毎日放送を紹介します。毎週土曜日の午前5時15分の放送で、同局のアナウンサーがさまざまな作家の作品を朗読する番組です。9月27日には、プロレタリア文学作家・宮本百合子(1899-1951)の「ようか月の晩」が放送されました。
宮本百合子は、日本女子大学英文科予科に入学早々、中条百合子の名で白樺派風の人道主義的な中編『貧しき人々の群』を『中央公論』9月号に発表し、天才少女として注目を集めています。1931年、日本共産党に入党し翌年、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚しました。戦時中は獄中にあった顕治を獄外で支え、自身も1936年に懲役2年執行猶予4年の判決を受けています。顕治は1944年無期懲役の判決を受け、網走刑務所に服役しましたが、日本の敗戦後の1945年10月にGHQによる政治犯の一斉釈放により出獄します。体調を崩すなどの苦難を乗り越えながら、百合子は粘り強く執筆活動を続けました。
「ようか月の晩」は、1923年9月に、『女性改造』に発表されたものです。月齢の一日は新月、十五日は満月となるので、ようか月(八日月)はほぼ半月になります。
「夜、銀座などを歩いていると、賑やかに明るい店の直ぐ傍から、いきなり真闇なこわい横丁が見えることがあるでしょう。これから話すお婆さんは、ああいう横丁を、どこ迄もどこ迄も真直ぐに行って、曲がってもう一つ角を曲がったような隅っこに住んでいました。それは貧乏で、居る横丁も穢なければ家もぼろぼろでした。天井も張ってない三角の屋根の下には、お婆さんと、古綿の巣を持つ三匹の鼠と、五匹のげじげじがいるばかりです」(和田博文編『星の文学館』ちくま文庫、p.24)
と続くこのお話を、おしゃべり本棚のラジオ放送を、ユーチューブようか月の晩で聴きながら、これをテーマに「おしゃべり」することに致しましょう。




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