前回は、詩人・ねじめ正一から始まる「詩のボクシング」、会場の人々を踊り出させる「カラオケ・エンタ」、70年前の従妹との再会による「タイムスリップ・エンタ」、4,000枚のCDから新しい自己を紡ぎ出す「未来自分作りエンタ」、「宮崎アニメの網の目構造と交差する「メディア・トリップエンタ」と、哲学エンタの多彩な発展型を見ることが出来ました。
本日は、日常の暮らしの中で、皆さんが「気になる」「気にしている」ことを開陳してもらいます。気になる、気にするの「気」は、ソクラテスのエピメレイア(ἐπιμέλεια、 気遣い)と、ハイデガー哲学の「実存者」に求められる「ゾルゲ」(Sorge 気を配る)に通じています。
ソクラテスの「気遣い」は、プラトンがソクラテス裁判を忠実に再現したとされている対話編『ソクラテスの弁明』の中で、告発者のアニュトスを前にして、傍聴している大衆の一人一人に向けての次のような語りとして登場します。
「君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいということにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」(田中美知太郎・責任編集「ソクラテスの弁明」『プラトンⅠ』世界の名著6、中央公論社、p.435)
「わたしが歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ、次のことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、だれにでも魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかうべきであって、それよりもさきに、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭をつんでも、そこからすぐれた魂が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、魂のすぐれていることによるのだから、というわけなのです」(同pp.435-436)
「すぐれた=ἀγαθος」、の最上級名詞形が「徳」(アレテーἀρετή)で、納富信富訳『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)では、「徳」を使っています(同書pp.62-63)
ハイデガー存在論の核心は「私たち人間は共同存在として、本質的に他人のために『存在する』」ことにあります(『存在と時間 上』岩波文庫、桑木務訳、「第4章 共同存在および自己存在としての世界・内・存在。「ひと」pp.232-237)。「ゾルゲ」は、他者の存在を「思いやること」「忘れないこと」「他者に常にまなざしを向けること」であり、生物学者ユクスキュル風に言えば他者の「環世界」を共有すること、を意味しています。他者とは、水をやらないと枯れてしまう鉢植えの植物のような身近な存在から、ウクライナやパレスチナの人間たち、ひいては地球、宇宙全体にまで至り、「他者を思いやること」は、自らを充足させるだけでなく、他者をも活かす力をも持つのです。
お一人が以前から「気にしている」という「デカンショ節」について、考えるところを話したいとのご希望が出ていますので、トップバッターとして登場願いましょう。
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