前回の桜をテーマとした講座で、皆さんの知見と洞察に感激しました。「馬下りて 高根のさくら 見付たり」(与謝野蕪村)についてのお一人のご指摘、「馬を下りる」は視点の変換を表しており、立ち位置を変えるだけで世界の見え方がガラッと変わり、新しい発見がある、には感服しました。「さまざまの 事思ひ出す さくらかな」(松尾芭蕉)のさくらは、ある時期に存在して記憶を呼び覚ます対象を象徴しており、さくらは「夏草やつわものどもの夢のあと」の夏草と対応している、つまり、さくらは「時間」が組み込まれている記憶再生装置として働いている、とのご指摘にも目をさまされました。「さくらさくらと 唄はれし老木哉」(小林一茶)の老木も、同じように「時間」が組み込まれた記憶再生装置となっている、とほかの方がエールを送ってくれました。
お一人からは、法華宗本門流法昌寺(東京都台東区下谷)の住職であり歌人・短歌絶叫コンサートで知られる福島泰樹の短歌「情念を裸のままで吹きさらせ常に命の切実を問え」を紹介していただき、「有限なくしてかけがえのなさは出てこない」と、ハイデガー存在論をもっと深堀したい、との重いご希望をいただきました。
ドイツ語の「daダー」は、空間的に「ここ」、時間的に「いま」を表し、ハイデガーが私たち人間のことを位置付けた「Dasein」=「現存在」(翻訳語として通用)は、正確には「いま、ここ、存在」です。以前、お話したと思いますが、私の哲学の師であるギリシア哲学の井上忠先生が常に口にしていた「哲学の現場は、どこにあるか。それは、常に、いま、ここだ」を思い出します。
実際には、私という人間だけでなく、桜もなずなも「いま、ここ、存在」として、時間と空間のなかで多様な顔を見せます。春に華麗な花を咲かせる桜も老木となって枯れ、人間もやがて死にます。例にあげた芭蕉、蕪村、一茶それぞれの俳句が醸し出すものは、「いま」「ここ」における詠み人の「心」と「命」との出会いがもたらした一言で言えば「ものの哀れ」の表現だったと見て良いのではないでしょうか。
ハイデガーによれば、自己への気遣いが、私という存在が「死ぬ」定めをもつ有限な「いま、ここ、存在」であることを教え、だからこそ、私たちは「今、ここで、何をやるか」を常に問われている、のです。はやり言葉にもなった「いつやるの、今でしょ」をつい思い出します。
これまでの図式によれば、私=「いま、ここ、存在」with 「(私の気遣い)」とでもなるでしょうか。皆さんが見ている私with 「(哲学講座住人)」は、瞬間瞬間、ここ、あそこで揺れ動く「いま、ここ、存在」としての私の総和となります。「いま、ここ、存在」としての私は、行ってみれば私という存在の微分であり、総和としての私は積分となる、と言えば正鵠を得ていると思います。
前回の「わび、さび」についての質問に対して、お一人が寄せてくれた画家・千住博の「わびさび論」とAIの回答を添付させていただきます。また、お配りしている講演記録「もう一人の私」は、私に対して、私自身がインタビューすることができるか、という妄想をもとに、他者とも言える「もう一人の私」について考察したものです。
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