今回は、テクスト『木から落ちた神さま』の「第七章 イエス・キリスト」(pp.115-pp.126)から「キリストの復活」の意味解読へと進むことに致します。
前回は、ヤハウェ的な神が、「啓示」を受ける預言者たちによって受け継がれてきたことを書きました。しかし、啓示は特別な人たちにしか神の存在を感知できません。神の存在を「見える化」する仕掛けが「人間」イエスの存在とその復活であり、これを「無限なる神」が有限の人間に「繰り込まれた」と私は書きました(p.126)。
ユダヤ人であるイエスは、ユダヤ教の改革者としてローマの宗主権のもとにあるヘロデ王の治めるパレスチナのユダヤ王国(イスラエル)で伝道を始めました。しかし、イエスに反発するユダヤ教の人々たちの声に押されて、ローマ総督ピラトは彼をエルサレム郊外のゴルゴダの丘で、盗賊二人と共に十字架にかけられて処刑されました。
ローマの市民権を持つユダヤ人パウロは、イエスの死後イエスをキリスト(救世主)とするキリスト教徒を迫害する立場でしたが、ある日「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という光と共に現れた声をきっかけに、キリスト教徒に転身し、新約聖書に登場する「ローマ書(ローマ人への手紙)」などいくつもの「福音」の著者となります。
カール・バルトは、『ローマ書講解(上)』(小川圭治・岩波哲男訳、平凡社)の第一版の序を、「パウロはその時代の子として、その時代の人たちに語りかけた。しかしこの事実よりもはるかに重要なもう一つの事実は、彼が神の国の予言者または使徒として、すべての時代のすべての人たちに語りかけていることである」(p.13)と、パウロの「ローマ書」が時代を超えた普遍性をもっていることを指摘し、ゲーテの詩『遺言』から、次の部分を引用しています(p.14)。
真理(まこと)は、見出されてすでに久しく、
気高き精神の持ち主たちを結びつけた。
古き真理(まこと)―それをとらえよ。
そして、第二版の序に、次のような一文を見出すことができます(p.30) 。
「神は天にあり、汝は地上にいる」。この神のこの人間に対する関係が、私にとっては聖書の主題であると同時に哲学の全体である。哲学者たちは、この人間の認識の危機を根源と名づけた。聖書はこの十字路にイエス・キリストを見る。わたしがローマ書のような本文と取り組む場合には、わたしがとりあえず前提にするのはパウロも、彼の概念を構成する時、あの関係の単純であると共に計り知ることのできない重要さを、わたしが今かれの概念を注意深く追及するのに没頭している場合と同じくらいの鋭さで見つめているということである」
私には、パウロの「ローマ書」を読みこなす力はありません。しかし、カール・バルトとともに、「神と人間との関係」は、まさに私たちの今回の講座のテーマそのものであり、「無限なる神」が有限の人間に「繰り込まれた」、と私自身が考えるイエス・キリストの問題を、パウロの言葉のなかに探究してみたいと思うのは、故なきことではないのではないでしょうか。皆さんのご意見を聞かせてください。
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