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8, モーツァルトとかけて老子と解く、その心は

 いつだったか、ある女性の受講生が、彼女の属している読書会を仕切っていた物知り顔のリーダーから「あなた、何者」と怪訝な顔で問いかけられた話をしてくれたことを思い出しました。私はテキスト『論叢』(聖徳大学言語文化研究所20)冒頭で、モーツァルトについて語ろうとすることは、ソクラテスがソフィストのゴルギアスやプロタゴラスに対して問いかけた「あなたは何者なのか」の問いと同じ土俵に上ることである、と書いています(p.36)。


 これまで紹介してきた吉田秀和や小林秀雄、小塩節、井上太郎らの声の底にあるものは「モーツァルトっていったい何なんだ」というアリストテレスが説く哲学の始まり「タウマゼイン=驚き」そのものである、と考えるのです。


 作曲家や指揮者、演奏家がモーツァルトのことをどのように考えているかの例として、音楽の生徒たちに「君たちのうち誰か、モーツァルトとは何か?知っているものがいるか!?」と質問してびっくりさせるドヴォルザークの話は実に示唆的です。「オペラ作曲家だ」「ハイドンの後継者だ」「ロマン主義の先駆者だ」とその陳腐な答えに業を煮やしたドヴォルザークは「誰も、この謎がとけないのかね?」と、いちばん近くの生徒を窓のそばにつれていき、天を指してこう言います。「わかったろう、諸君、モーツァルトはあの太陽なのだ!」(吉田秀和・高橋英郎編『モーツァルト頒』白水社、pp.237-238)


 これこそ、アリストテレスのタウマゼインそのものだと思いませんか。


 「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたと思うときにはいつも、わたくしはピアノに向かってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのが常である」と語るスイス出身のピアニスト・エドヴィン・フィッシャー(1886-1960)は、実に多彩な「モーツァルト讃」を語っています(『音楽を愛する友へ』新潮文庫、pp.42-48)。。


 モーツァルトの音楽を「あのすばらしい神の世界」と語りながら、作曲家でピアニストのブゾーニが晩年のある日、ながらく耳にしなかった『後宮からの誘拐』を聴いた時、冷静で、泰然自若の精神の持ち主が、幼児のごとき喜悦の涙がつたった話を披露するフィッシャーは、最後にこう結論します。


 「モーツァルトは決してお砂糖の利いた、あまったるい音楽でもなければ、工匠の細工物でもない。モーツァルトは心の試金石なのだ。彼によって、われわれは趣味や精神や感情のあらゆる病患から身を護ることができるのである。ここには、簡潔にしてしかも気高く、健康で、かぎりなく澄みきった一つの心情が、音楽という神々の言葉で語りかけているのである」(p.48)


 彼が、モーツァルトの音楽を老子の次の言葉に例えているのは実に興味深いですね(同pp.43-44)。「欲せんとすることなくして欲し、為さんとすることなくして為し、感ぜんとすることなくして感じ、小を大とし、少なきを多とし、悪しきを善とす。是を以て聖人は終に大を為さず、故に能く其の大を成す」。


 老子といえば「自然(じねん)」ですから、さしずめモーツァルトは「自然(じねん)ちゃん」とでも呼ぶべきなのでしょうか。

 

 さて、皆さんは、モーツァルトは何者だと思いますか。

 
 
 

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