前回は、お一人の「虫も殺さない」というジャイナ教の話にいたく惹かれました。ジャイナ教徒の家に生まれ、ジャイナ教の修行僧を経てガンジー思想に共鳴し、バートランド・ラッセルやマーチン・ルーサー・キング牧師らを訪れるなど「思想の巡礼」を重ね、デカルトの二元論「我思う、故に我あり」を転換し、『君あり、故に我あり』(尾関修・尾関沢人訳、講談社学術文庫)を著し、「私」と「あなた」が別物だとする「分離の哲学」から、万有が一体となる「共存の哲学」を提唱しているサスティシュ・クマール(1936.8.9~)の世界に入ることに致しましょう。
『君あり、故に我あり』には、「ジャイナ教は逆説の哲学である。我々は精神的であると同時に物質的であり、『存在すると同時に存在しない』ことが可能である」の二律背反的なメッセージが登場します(p.50)。そして、クマールは「対立と闘争が支配している」現代の状況を、二元論的世界観により「私」と「他者」が分離され、世界そのものが分割されている、と次のように言っています。(同第二十五章pp.322-334)。
二元論的世界観は、自分は他者から独立して存在するという幻想を与える。この態度は、実体的で分離した個別の自我が存在し、自我は他者とは無関係に自身の意志で行動することが可能である、という信念に基づいている。精神は物質よりも確実で、「私の精神」は「他者の精神」よりも確実であるということを受け入れたとき、私たちはすでに世界を分割しているのだ」(p.325)
ジャイナ教徒の家庭に生まれたクマールは「すべての生命は地球共同体のメンバーである」との考え方を、ジャイナ教の根本思想「太陽は植物に光を与え、植物は鳥に果実を与え、鳥は種を運び、種は自らを土に与え、土は種に命を与える」の中に見出します。そして、それは「すべては相互依存でつながっている」とする仏教の「因縁生起」に通じ、ヒンズー教の「ソーハム(彼は我なり)」「君あり、故に我あり」と通じている、として、彼の著書のタイトルをそこから取ったのです。
クマールはさらに、次のように断じます。
デカルト的二元論は、個人をお互い及び世界全体と対立させ、人生を戦場とする。各個人は自力で生きていかねばならず、自らの利益のための行動に没頭する。個人主義が強者による弱者の搾取を生み、権力や富のための争いを生み、動物と自然の隷属化を生み、そして充足感のない無意味な人生という究極の欲求不満を生み出す。「分離する哲学」では、個人は獲得することだけを奨励される。この終わりなき獲得競争は不安以外の何ものにもつながらない。私たちは不安の時代に生きている。恐れ、不安、不信が私たちの生活を支配している」(pp.327-328)。
ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナの抗争…まさにデカルト的二元論がもたらしたような「不安の時代」の現出を前にして、お借りした映画『コンタクト』で、主人公がワームホールを抜け、宇宙の一角で亡くなった父親の形をして現れた宇宙人から伝えられた言葉が痛烈に胸に響いています。
「我々は孤独な存在ではない」。これこそ、「神の声」であり、クマールの「共存の哲学」が世界に浸透していくことを祈るばかりです。
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