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7, エロスは「生の使者」?それとも「死の使者」?

 さて私たちは、キルケゴールが提起している次のような問題意識に戻ることにしましょう。


 「この研究が主として課題にしたことは、音楽的=エロス的なものの意味を明らかにし、さらにこの目的のために、すべて直接的ーエロス的であるという点で共通性を持ち、同時にすべて本質的に音楽的であるという点でも一致する、さまざまな諸段階を指摘することである。これについて私が言いうることは、ひたすらモーツァルトだけに負うのである」(テキストpp.60-61)

 

 この箇所は、『あれか、これか』(キルケゴール著作集1、白水社)の「二 直截的、エロス的な諸段階―あるいは―音楽的=エロス的なもの」からの引用(同書p.101)です。

 彼は「愛の神」エロスについて、面白いことを言っています。愛の神でありながらエロスは自分では恋をせず、人々に恋する力を分配する、というのです(同書pp.106-107)。これはまさに、私が前回あげた「エロスは人々の神霊に働きかけて、恋をさせる」との考え方に通じるものですね。

 

 建築や彫刻、絵画のような視覚的芸術が、瞬間の感性を表現するものであるのに対して、音楽は瞬間の連続の中に現われる感性の変化を表現する芸術である、というようなことをキルケゴールは強調します(同書p.96)。この時々の微妙な織物のように編み込まれた私たちの感性の全体を、モーツァルトの音楽は優しく包み込み、私たちの不安を取り除き,平穏な心の状態へと導いてくれる、とキルケゴールは言っているように思います(同書pp.102-103)。これが音楽そのものの秘めた力であり、エロスに等しい力だと言うのがキルケゴールの考えであり、モーツァルトの音楽、なかでも『ドン・ジョヴァンニ』で最高に発揮され、「時間のまっただなかにある永遠のなかへと踏み入り」「いかなる雲も人間の目から隠すことのない、不滅の者たちの頂点に立った」と断じるのです(同書pp.88-89)。

 

 さらにキルケゴールは、「ドン・ジョヴァンニのエロス性は誘惑である」と続けます(同p.161)。さて、私は次のように結論づけました。


 むしろ「彼はエロスそのもの」と言うべきだった。なぜなら、「誘惑」は単なる働きかけを意味するだけだが、「エロス」はその働きかけによって相手を動かす現実的な力をも意味するからである。しかもそれは、「女性の滅ぼし手」「死の使者」としての「氷のようなエロス」ではない。まったく逆に、誘惑する相手のすべてを活性化する「生の使者」なのである」(テキストpp.64-65)

 「女性の滅ぼし手」「死の使者」「氷のようなエロス」は、ドイツの作家ハンス・キューナーが「モーツァルトの傑作オペラにおける愛の世界」で使っている表現です(パウル・シャラー・ハンス・キューナー編『モーツァルトの諸相(下)』音楽の友社、p.442)。

 

 こうして「ドン・ジョヴァンニは一つの生であり、そして他者の生の原理である」とのテキスト冒頭の結論に至るのですが、富崎さんによるとiPhoneの発明を人々は「エロスの箱が開いた」と言っているそうですが、さてiPhoneは「生の使者」なのか、それとも「死の使者」なのか、皆さん、どう考えますか。

 
 
 

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