テキスト「『持つ』の形而上学-フロム、芭蕉、アリストテレス、ハイデガー、レヴィナスをつなぐ点と線」の「五、ハイデガー存在論との接続」(pp.58-63)で、環境世界としての自然がそこに出会う人々によってさまざまな名前を付けられて存在することを示したハイデガーの考察から、俳人によって語られるなずなを、なずなwith「(俳人)」=なずなwith「(芭蕉)」+なずなwith「(碧梧桐)」+なずなwith「(高野素十)」+なずなwith「(中村草田男)」…と書きました。結局のところ、なずなの世界全体は、なずなについて語られてるすべての個別世界の和で表されることを示し、「なずながある」とは、このすべての属性を「持つ」ところのなずなが「ある」ということであり、なずなの存在は「持つことモード」に絡められていることを示しました。
何の変哲もないなずなの存在に芭蕉が気づいたのは、俳人としての芭蕉が自然の文物に「気を配り」「気遣っている」からであり、「Sorgeゾルゲ=気配り・気遣い」が、実存へとつながる重要な基礎概念であるとのハイデガーの論考(『存在と時間』桑木務訳、岩波文庫、p.111-112)に注目し、俳句は、俳人の「気づき」をその読者である「私たち」に気づかせる芸術であり、芭蕉と同じように「わび」「さび」や「かるみ」を「私たち」につかみ取らせる力を持つ、と指摘しました(テキスト「六、主体転換:「私」の登場、 p.64)。
今回は、桜への「気づき」をテーマに、皆さんと対話をしたいと思っております。
まず一つは、古今和歌集に登場する在原業平の有名な短歌「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」に込められた業平の桜への「気づき」です。「花見」は平安時代に貴族が桜を見ながらの歌詠みや、蹴鞠をしたりの行事から始まり、次第にその年の豊作を祈って農民が桜の下で宴会をするようになり、庶民の花見は江戸時代に入ってから、と言われています。わたしごときは、花見に浮かれる現代の世相を遠い過去から皮肉っているように感じてしまいます。
もう一つは、夭折の小説家・梶井基次郎(1901-1931)の小品「桜の樹の下には」に描かれた桜です。この作品について、計画段階で本人から聞いていた友人の小説家・文芸評論家の伊藤整(1905-1969)は、次のようにそのことを書いています(『梶井基次郎小説全集』沖積舎、pp.405-406)。
その時の作者の談話の美しさは、まだ書かれていないこの作品について、私を羨ましがらせたものである。…人間の屍体、鹿、犬、馬その他種々な生物の下が、咲き乱れている桜の木の下に埋まっている。…その鹿は脾膜が破れて、白い骨のかげから内臓の腐ったのが見えていたり、人間の脚の切り口がのぞかれたり、犬の眼のつぶれている処から液汁がたらたら流れている様などを、詳しく、一つ一つについてかなり長い叙述が用意せられていたようであった…私は、この作品を、…梶井基次郎の全著作のうちで、最も美しいもの、神のようなイデアを持ったものだと思っているのである。
皆さんはこの作品から何を「気づき」ますか。
次のようなに、俳句で表現しても結構です。
「桜咲き 春の訪れ 喜びぬ」(季語=季節を表す特定の言葉:桜)
「花見酒 笑顔広がる 春の宵」(季題=季節を表す特定の行事や風景:花見)
私も蛇足の一句 「メラメラと桜葉燃えて毛虫舞う」
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