万人に対して矛盾する生き方(「自由」と「従属」)を説いているように思われるルターの考え方に対して、皆さんから多種多様な声を頂戴しました。
「確か、武士道の本質として、生きることは死ぬことだ、とあった気がします。武士としては、いつでも死ぬことを覚悟した精神を示しているのではないでしょうか」「三銃士の精神、one for all, all for one に通じる生き方ではないか。誰もが、お互いに他者のために生きること、これが最高の自由ではないか」「善として生きること、悪として生きること、そんなことを感じました」
キリスト教の世界から、目を仏教の世界に転じて見ましょう。私たちはそこに、似てるとも似てないとも言える、奇妙な二律背反的な表現を見つけることができます。
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで西方浄土に行けるとの浄土教の主仏「阿弥陀仏」は、「量りしれない光を持つ者」「量りしれない寿命を持つ者」を意味する梵語「アミターバ」から来ており、「無量光仏」あるいは「無量寿仏」とも言われます。阿弥陀が「覚りを得るための指針」とでもいうべき心得を、釈尊(釈迦。世尊とも呼ばれる)を前に説いたのが(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)です。
若い修行僧に対し、かつてはどこかの国の国王で釈迦と同じ修行の道に入った「法蔵」が、「48の願」と呼ばれる願の形で、覚りへつながる道について釈尊に向けて自身の心得を語ってゆきます。「法蔵」の「願」が成就し仏となったのが鎌倉の大仏(写真)に代表される「阿弥陀仏」です。ちなみに、奈良の大仏は華厳経の「廬舎那仏」で、これは天台宗では釈迦そのもの、真言宗では密教上の教主とされる「大日如来」とされます。
さて、この「48の願」の内容を簡略化すると、「私は衆生の人々が悟らない限り、悟ることはない」なのです。いくつかをあげて見ましょう(中村元など訳注『浄土三部経(上)』(岩波文庫)。
1,世尊よ。もしもかのわたくしの仏国土に、地獄や、畜生(動物界)や、餓鬼の境遇におちいる者や、アスラ(阿修羅)の群れがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。(注:阿修羅=鬼神)
1,世尊よ。かのわたくしの仏国土において、ただ世俗の言いならわしで神々とか人間とかいう名称で呼んで仮に表示する場合を除いて、もしも、神々たちと人間たちとを区別するようなことがあるならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
1,世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸世界を見るだけの超人的な透視力(天眼通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。…
とまあ、皆さん、一つ一つを読んで、どんな感想を持つでしょうか。
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