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6,中村草田男×アリストテレス

 前回は、「フラフラ歩きで偶然の発見」を期待する私の講座のコンセプトをお話しするのに時間を割いて申し訳ありませんでした。今回は、テキスト<「持つの形而上学―フロム、芭蕉、アリストテレス、ハイデガー、レヴィナスをつなぐ点と線>に戻って、テキスト四「アリストテレス存在論との接続」(pp.55-58)に入ることに致します。まずは、テキスト三:存在論における「座標転換」(pp.51-55)で、フロムが「あることモード」の好例としたあげた芭蕉の俳句「よくみればなずな花さく垣ねかな」は、なずなが「垣ね」という誰かの所有物に存在していることから、「持つことモード」にからめとられている、と主張していることをご確認ください。

 

 アリストテレスは何かについて語ろうとするとき、十の「ある」によって言いつくされると考えました。芭蕉の薺の句に当てはめれば「なずなである(本質)」「小さくある(量)」「白くある(性質)」「目立たなくある(関係)」「垣根にある(場所)」「いまある(時)」「朝露をつけてある(所有)」「咲いてある(状態)」「立ってある(能動」「そよ風に揺られてある(受動)」とでもなることを示しました。しかし、アリストテレスは、究極の「ある」とも言える「端的なある(ハプロース・オン)の正体について煩悶し、それを「ウーシア」(実体)と呼んでいます。


 ここで私は、またもやフラフラ歩きの蟻となって、お一人が学生時代、夜もふけるのも忘れて話をした経験をお持ちの俳人・中村草田男(1901-1983)のことに気持ちが行ってしまうのです。「降る雪や明治は遠くなりにけり」で知られる草田男にも、薺(なずな)の俳句が21首もあり、そのうちの一句に、芭蕉庵を舞台にした次の句もあります。

 

 花薺芭蕉庵裏口無かりけん

 (萬緑運営委員会編『季題別 中村草田男全句』、一般財団法人 角川文化振興財団。p.88)

 

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』を愛読するなど、彼の俳句は「思想詩」と呼ばれ、季題をたんなる季節感を表すものではなく「対象の内奥と自己の内奥とのめぐり合いの一点となってかがやきでる」(同p.487)ものであり、外界の世界をモノ、心の世界をコトとして、季題はモノであり、「俳句は季題というモノを通して心のコトを表現し他人に感じ取らせる」(同p.488)、そういう「日本独特の象徴詩」(同)だと説明しています。


 また、草田男は、季題を「『主観』と『客観』、『内』と『外』、『意識』と『実在』、『個』と『全』―あらゆる相反要素がただ一点に結集して相闘う場であり、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」として存在する(同p.521)、とまで言っているのです。


 生活や人間性に根差した句の性格から「人間探求派」とも呼ばれています。代表句の「降る雪や明治は遠くなりにけり」や「蟾蜍(ひきがえる)長子世を去る由もなし」などについての自身の解説を上記全句集から読んでみましょう。


 アリストテレスの「端的なある(実体)」は、ひょっとしたら草田男が季題に込めた「内」と「外」、「主観」と「客観」…の「絶対矛盾的自己同一」ではないか、と考えたいのですがいかがですか。「花薺芭蕉庵裏口無かりけん」には、いかなる矛盾が込められているのか、考えるのも楽しいですね。

 
 
 

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