「モーツァルトとの最初の出会いは、戦局が深刻になった昭和十九年(1944年)のことである。当時私は旧制の東京都立高等学校(都立大学の前身)に通っていた」と著書『モーツァルトと日本人』で書き始めた文芸評論家の井上太郎は、戦時ながら当時の自分を、芥川龍之介が言ったという「哲学者より哲学的」な精神の無理な背伸びを、していたと表現しています(同書p.21)。
クラシック音楽と言えばヨハン・シュトラウスのワルツ程度だった彼が、ある日訪れた近所の慶大生の家で初めてモーツァルトを聴き、「交響曲40番の第三楽章だ」と教えられて耳にした「音楽そのものの動きに載せられて、運ばれていく」自分を感じ、音楽を解釈する心が「空転することに困惑」してこう語ります。「このような経験は初めてであった。そこには哲学もなく文学もない。ただ音楽そのものがあった」。「どう? モーツァルトって、ベートーベンなんかと違って、屈託がなくていいだろう? それにちょっと可愛いところがあるしね」の友人の言葉に「私はその言葉が理解できなかった」。
「モーツァルトって、僕にはよくわからない」と答える井上に対して、友人は「最後の第四楽章は、実に生き生きした愉快な音楽なんだ」とレコードの針を下ろし、始まった曲に(同pp.27-28)、井上は次のように続けます。
音楽は最初から疾風のように駆けめぐり、それに乗せられた私の魂は、いつの間にか、やり場のない悲しみに染め上げられて、音楽と共に走り続けていた。時に慰めの歌がよぎるが、たちまち音楽の本流の中にかき消されて行く。
曲が終わって気がつくと、私は知らない間に手をにぎりしめていた。手のひらはじとりと汗ばんで、しばらく口をきくのも億劫だった(同pp.28-29)。
そして、「僕、もう失礼する。今日は有難う」いつもと違う、こわばった表情をしているのが、自分でもわかった。友人が見せてくれた日本交響楽団の機関誌に載っていた著名な音楽評論家・堀内敬三の評論には、第三楽章を「明るい壮麗なユーモア」、第四楽章を「なんというほがらかな調べであろう。すべては楽しく美しく日光の下に踊りさざめく」と書かれていた。「これは私の感じたものと全く逆ではないか。私にはモーツァルトを理解することは無理なのだろうかと思った」(同pp.29-30)
敗戦直後、戦火をまぬがれて友人の家に残っていたレコードでモーツァルトの40番を第一楽章から通して聴くことになった井上は、曲が終わって涙を流している自分を感じます。
「こんな音楽ってないね」とポツリと言った友人の一言に、音楽評論家・堀内敬三と反対にとらえていた「自分の感性が間違っていなかったことに気づいた」(同pp.30-31)そうです。
40番があまりにも楽天的に演奏されるのに耐えられずウイーン・フィルを退団したアーノンクールの言葉は実に啓示的ですね。「40番は、死んだ人を悼む曲であり、全体が深い悲しみをたたえています。それなのに人々は笑いながらこの曲を聴いているのです」(同p.31)
いうまでもなくこの交響曲40番は、小林秀雄が道頓堀で衝撃を受けたあのト短調シンフォ二―です。さて皆さんには、この40番がどのように聴こえますか。
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