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5,考えるという重い病気

 前回、アリストテレスが『形而上学』の冒頭にあげている人間の本質「知りたがり」による私たちの「知識」が、逆に「自己を束縛」する疎外状態に追い込んでいる、とのエックハルトの主張をあげました。「我思う、故に我あり」の発見によって、私たちの存在を保証するものが「思う」(デンケン=考えること)であることをデカルトが哲学の基盤にしたことはよく知られていることですね。


 私たちは神によって存在化させられている、との考え方が揺らいでいる時代に、デカルトは自分自身が確かに存在しているとの根拠を求めて煩悶していました。その結果閃いたのが「考えているこの私が存在していることは疑いようがない」と、「コギト・エルゴ・スム=我思う、故に我あり」の表現発想にいたったのでした。以来、考えることが私たち人間の本質であることは、疑いのない哲学的な公準として、一つの金字塔として輝き続けています。


 この、公準「考えること」が、文明人を重い病に陥らせている、と喝破したのが、西サモアのウポル島ティアベアの酋長ツイアビなのです(『パパラギー初めて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』岡崎照男訳、立風書房)。講演集のタイトルにある「パパラギ」は、「空を破って現れた人」の意味で、その昔、宣教師が乗った帆船の白い帆を、空にあいた穴だと思ったサモア人がヨーロッパ人のことをそう呼んだ(同書p.132)ことから来ているそうです。サモアへ渡った放浪ドイツ人ショイルマンが、ツイアビとの話をまとめて翻訳・編さんしたのがこの本で、第一次世界大戦終結の直後の1920年が初版、そしてその60年後の1977年に再版され、1981年に日本でも出版され、現在に至っています。


 服装から住宅、お金、働き方、所有心、機械の支配、職業へのこだわり、メディアへの耽溺、といった文明人の生きざまを、あきれ顔で語っています。どの項目も、私たち文明人の陥っている「病」と言われても仕方のないものばかりで、とくに、いつも時間がないと嘆いている「時間の病」(pp.59-66)と情報の空白が耐えられない「情報の病」(pp.95-104)、そして最大の病としてあげているのが「考えるという重い病気」(pp.105-116)なのです。


 「私が教会の裏のマンゴーの木を見るとする。私はただ見るだけだが、(彼らは)ただ見るだけでなく、何かを知らなければならない。この知るということの練習を、パパラギは日の出から日の入りまで一日中くり返す。…パパラギは考え続ける。おれの小屋はヤシの木より小さい。ヤシの木は嵐で曲がる。…彼らはまた自分自身についても考える。おれは生まれつき背が低い。おれは女の子を見ると心がうきうきする。おれはマラガ(旅行)がとても好きだ。…パパラギは、あまり考えてばかりいるので、それがもう癖になり、なくてはならないものになり、それどころか一種の義務になってしまった。…考えること、考えたもの、思想―これは考えたことの結果であるーはパパラギをとりこにした。彼らはいわば、自分たちの思想に酔っぱらっているようなものだ」(同書「考えるという重い病気」pp.106-107)。


 実は、この話はサモアに1年間住んだことのあるショイルマンによるフィクションであることが後にわかりました。サモアの生活に触れた文明人が、いわば自己批判として書き上げた文明論というわけですが、つい騙されてしまうほど良く書けています。ご一読を!

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