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5,エロスがモーツァルトにとりついている?

 「誘惑というのは行為だから、真・善・美のうちで善に属するものですよね。それが、美につながる理由が分からない」と、お一人からまさに哲学的問いが出され、皆さんから「おー」と感嘆の声が発せられました。

 

 真は理性の領域(『純粋理性批判』)、善は悟性の領域(『実践理性批判』)、美は感性の領域(『判断力批判』とはカントの考えですが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスにつながるギリシア哲学の流れでは、善なる行為が徳を生み出す、と考え、「徳」(アレテー)は「美徳」とも言われ、善と美が一体になっています。アリストテレスの基本的考えは、「善く生きること」(エウダイモニア)に要約されます。「善く」(エウ)は、正しく、謙虚に、誠実に、などを含意した幅広い意味を持つ形容詞で、それは美しさもまた含まれています。「ダイモニア」は、ソクラテスに自制を促す神霊「ダイモ―ン」のことで、エウダイモニアの原義は、神霊に守られた状態が「善く生きる」ことになるのです。

 

 ドン・ジョヴァンニには、愛の女神エロスがとりついている、と考えてみましょう。エロスによって操られ、人々を誘惑して彼らを目覚めさせ、社会や性などに対する固定観念から解放するのがドン・ジョヴァンニの誘惑力、とするのです。ダイモ―ンは、神と人とをつなぐ役目をする存在です。いわばエロスは、人々の守護霊にあたるダイモ―ンに働きかけて、彼らを「善く生きる」こととは何か、を発見させるとも言えるのではないですか。

 

 キルケゴールは、次のように言っています。

「主人公が同時に他の諸人物のなかに働く力をも代表しているということこそ、このオペラの秘密である。ドン・ファンの生は他の諸人物のなかの生の原理である。彼の情熱は他の諸人物の情熱を活動させ、彼の情熱はいたるところに反響をおこす。彼の情熱は騎士長の厳粛さ、エルヴィーラの怒り、アンナの憎悪、オクターヴィオの気取り、ツェルリーナの不安、マゼットの憤慨、レポレロの混乱のなかに反響し、それらを担う(テキストp.67)」

 

 これはまさに、ドン・ヴァンニに取りついているエロスが周りの人間たちの守護霊に働きかけて、その人々を「目覚め」させていることが示唆されているのではないでしょうか。その結果、エルヴィーラは修道院へ、ツェルリーナはマゼットと一緒に、ドンナ・アンナは婚約者オッターヴィオを袖にし、レポレロはあっさりと主人替えに踏み切ります。

 

 このような新しい道を見出す「決断」こそ、アリストテレスの言う「善と美が一体となった」美徳の行為だと思うのです。いかに劣悪であろうとも、「美」を感じさせるモーツァルトの作曲哲学「音楽は美しくなければなりません」を鑑みれば、モーツァルトこそが、エロスを背負い、彼の守護霊ダイモ―ンが人々を感動させる音楽を作らせた、と考えるとワクワクしませんか。そういえば、前期の講座『モーツァルトは音楽のソクラテス』で、ゲーテが『ドン・ジョヴァンニ』について、モーツァルトは「自己の天才のデモーニッシュな精神に支配されてその命じるままに実行したに過ぎない」と言っている(エッカーマン『ゲーテとの対話』下p.303)ことを思い出しますね。


 参考:明治の文人・三宅雪嶺の『真善美日本人』(講談社学術文庫)は一読の価値ありです。

 
 
 

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