一通り参加者の話が終わると、いつもは問いかける側のソクラテスが、逆にディオティマという女性から問いかけられる形となります。ディオティマは、人々は「何を愛するのか」と問いかけ、「美しい体」「美しい心」と話を進め、永遠に変わることのない「美そのもの」を求めるのだ、と説いてゆきます。
「その美は永遠であり、生じたり、消えたりすることもない」「その美は、ほかのなにものにも依存することなく独立しており、常にただ一つの姿で存在している。これに対して、それ以外の美しいものはみな、この美をなんらかのしかたで分かち持つことによって美しい」(プラトン『饗宴』中澤務訳、光文社文庫、pp.150-151)
「さまざまな美しいものから出発し、さながら梯子を使って登る者のように、美しい体から美しいふるまいへ、そしてふるまいからさまざまな美しい知へ、そしてさまざまな知から、かの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体を知るに至るのだ」(同p.151)
エロスを巡る論議を、ディオティマは「美とは何か」という現代まで続く哲学論議へと変えていくのです。興味深いのは、人間は原子、分子レベルで入れ替わりながら、同一性を保っている、との生物学者・福岡伸一の「動的平衡」論を思わせる内容が、ディオティマの話のなかに、語られていることです(福岡伸一『動的平衡』木楽社、pp.231-233)。
「人は子どものころから老年に至るまで、同一の人物だと言われる。だが、その人は、同一の人物だと言われながらも、その構成要素は決して同じものではなく、絶えず新しいものになり、また、ある部分は失われていくのだ。毛髪も肉も骨も血も、体全体がな。
このような現象は、体ばかりでなく、心においても起こっている。習慣、性格、思考、欲求、快楽、苦痛、不安―このようなものはいずれも、それぞれの人のなかで同一の状態が存在することは決してなく、あるものが生じたかとおもえば、あるものは消えていくのだ」(プラトン『饗宴』同p.141)
「こうして、見かけ上、あたかも同一の知識が存続しているように見えるわけだ。死から逃れられない生き物はすべて、このようなしかたで存続していく。神のように永遠に同一性を保つというやりかたではなく、老いて消え去りながら、自分に似た別の新しいものをあとに残していくというやりかたでな」(同p.142)
哲学⇒愛知の知の「ソフィア」は「賢い」を意味する形容詞「ソポス」(sophós)から来ており、ソフィストはもともと「賢い人」を意味していました。「知識」の知の原語は「エピステーメ」で、英語の「knowledge」に対応します。ふんだんな知識を駆使して、人々を説得する弁論術の使い手がソフィストでした。プラトンは、美についてのさまざまな知識を上り詰めてゆくと、やがて「美そのものの知」としてのイデアに行きあたると考えたのです。
福岡伸一のHPに、次々と内部の部分が変わりながら、全体が同一性を保つ人間をモデルとした「動的平衡」のイメージが出ています。Shin-Ichi Fukuoka|福岡伸一 公式サイト (fukuokashinichi.com)。さて、美とは何でしょうか。皆さんの自由な議論を期待します。
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