5, 「語り合う」ことを「語り合う」
- 2月12日
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「善く生きることを人々に説いたソクラテスの精神をクセノフォンはわかっていない」「スパルタ側についてアテナイと戦争したクセノフォンだから、あの対話編はソクラテスを通した自己弁護だと思う」とまあ、前回も、クセノフォンさんの評価は下がるばかりでした。座談の中で、次のような声がありました。
「何かについて自分に問うてみると、わからなくなり、さらに問うてみる、それを繰り返していくと、心の中心にぽっかり穴が開いているのを感じる。その穴のなかは何でしょう」。また、日経の「私の履歴書」に登場した写真家の大石芳野さんの「どうして、という問いがいつも私の心にあった」という問題意識も紹介されました(「私の履歴書2小さな草」2月2日)。
こりゃすごい、とんでもない哲学的な問いが続々登場していますね。実用話に終始しているクセノフォンさんにはとても答えられそうもなく、これはいよいよプラトンさんの出番でしょう!
前回紹介したキルケゴールの『イロニーの概念』(著作集20(白水社)には、その2としてプラトンが取り上げられています。プラトンと言えば万物は究極の存在である「イデアの影」とするイデア論ですが、キルケゴールがしばしば使うイデー(「理念」と訳されている)は、自分自身が主体として生きるための人生の核ともいえる考え方です。その意味では、ソクラテスが人々に求めた「善く生きる」ことと、通底するものと言えるかもしれません。
プラトンはソクラテスの中に、相手に「新しい時期を始めさせ、永遠の生命への湧き出る泉」となる人格を見てとっていた、とキルケゴールは感得していました(pp.55)。そして「それは、個人を創造する言葉であるか、それとも個人を産み、かつ養う沈黙であるか、どちらかだとわれわれは言うことができるであろう」(同)と書いているのです。
ディオゲネス・ラエルティオスはプラトンの対話編が、その性格において「教導的」なものと「探究的」なもの、「個人」にかかわるものと「国家社会」にかかわるもの、精神の訓練となる「練習的」なものと言論の勝負を競う「競技的」なもの、などに分けられるといい、さらに、「演劇(ドラマ)」風のもの(直接対話体)と「物語風のもの」(間接叙述体)、の形にも分けられる、としています(『ギリシア哲学者列伝(上)』加来彰俊訳、岩波文庫、pp.284-285)。
キルケゴールはこのなかで、「戯曲的」と「物語的」の分類に注目し、「物語的」対話編がソクラテスの史実的解釈に最も近くかかわっているものだとして、そのタイプの例に『饗宴』と『パイドン』を取り上げています(『イロニーの概念』p.58)。
『饗宴』は、最後に乱入するアルキビアデスを含めるとソクラテスのほか6人の参加者が登場する対話編で、知人のアポロドロスが聞いた話として語っていく形をとっています。愛の神エロスについて、各人が自説を披露し、ソクラテスがその話をひきとって、ディオティマなる婦人に聞いた話として、突然現れる美のイデアについて語ります。
キルケゴールはここでまず、ソクラテスの「語り合う」技術の重要性を説いています(pp.61-62)。
本日は、「語り合う」ことについて、大いに語り合いたいのです。
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