フロムは、ドイツ・ドミニコ修道会の神学者マイスター・エックハルト(~1260-~1328)のことを「持つ存在様式とある存在様式との違いを、いかなる教師も凌駕しえない洞察力と明晰さをもって記述し、分析している」と始めています(フロム『生きるということ』紀伊國屋書店、p.91)。「持つ」についての彼の見解は、マタイによる福音書五章三節の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」に基づいている、とフロムは続けます。「貧しい人」とは、「何も欲することなく、何も知ることなく、何も持つことのない人物である」と、エックハルトは定義していると言い、「何も欲することのない人物」とは、「何ものにも貪欲でない人物である」(同p.94)とするのです。
エックハルトは、「彼は神に関する知識も彼の内に存在しなくなるほどにまで、あらゆる知識を放棄しなければならない」とまで言っています。この意味合いについて、フロムは「私たちは自分の知識で、<満たされ>たり,それにしがみついたり、それを渇望したりしてはならない。知識は教条(ドグマ)の特質を帯びてはならない。教条は私たちをどれいにするからである。これらはすべての持つ様式に属する」と解説しています(同p.96)。
ドグマとは、簡単に言えば私たちが陥りやすい「思い込み」のことですが、知識を持つことを否定するエックハルトの主張は、アリストテレスの「人は生まれつき知りたがり屋である」とする人間の本質を否定するかのように感じます。「知りたがり」によって、私たちは外界や自分自身のことについて「知り」そして、やがて、内と外を区別する「自我」が生まれてゆきます。エックハルトは、私たちが身につけたこの「知識」が、逆に自我を束縛し、自己中心主義の罠に陥っていく原因を作る、と考えるのです。
講座初日に、フロムが巻頭で紹介しているエックハルトの言葉「人々は何をなすべきかより、自分が何であるかを考えるべきである」に対し、「何であるか」は、「何をしているか」に現われる、と私は異議を唱えました。ビジネスをしている人はビジネスマン「である」、教えている人は教師「である」…、の如く、していることが「何である」を示しているからです。しかし、それは単に「職業を持つ」に過ぎず、「なすべきことの数や種類でなく、善くあることに重点をおくように心掛けよ」(同p.99)とエックハルトが述べていることを知り、私の疑問は氷解しました。これはまさに、ソクラテスがその対話法で常に相手に求めている「善への目覚め」に通じるものだからです。
エックハルトは「平和を目指して絶え間なく走れ!」(同p.100)とも言っており、「平和に向かう行為」を最大の善的行為とみなしていることは疑いありません。また、「あること」としての存在は、「自分の外に出ること」だとしていますが(同pp.99-100)、「外に出る」とは「我を忘れる」と同義と言っていいでしょう。「我を忘れる」ことの象徴的な表現として「走ること」を選んだと考えられます。「無我夢中で平和を目指せ」と言った方が分かりやすいかも知れません。平和を目指すことが「持つ社会」からの脱却につながる、とフロムは言いたいのでしょうか。皆さんは何を目指せば「持つ社会」から脱却できると思いますか?
次回は、「考えること」を「重い病気」とする南海の酋長の文明人批判に踏み込みます。
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