4,夢の中の「私」と目覚めているときの「私」
- 5月20日
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前回は旧約聖書の「創世記」第40章~第41章に登場する夢の話が紹介されました。エジプトに監禁されていたユダヤびとヨセフは、夢の解読能力があり、王パロの夢を解析して難題を次々に解決し、監禁状態からエジプト全国の「つかさ」に任命されるのです。イスラエルの王ソロモンの金言を集めた「箴言」の章も紹介されました。
第29章の「幻がなければ民はわがままにふるまう」とある「幻」は英語でvisionと訳されるものですが、ソロモン王の生涯を記述した「列王記上」3章に、あるとき夢に主が現れ、民をみちびくおおいなる知恵を授けられた、とあり、この知恵の中身が「箴言」の内容なのです。
プラトンの対話編「クリトン」に、死刑宣告を受けたソクラテスに支援者の一人クリトンが、死刑執行人の船がやがてアテナイに通じるスニオン岬に着く、と知らせたとき、ソクラテスは次のような夢を見たと話すシーンがあります。
「白衣をまとってみめ美しき女性がぼくのところにやってきて、こう呼びかけたように思うのだ。-ソクラテスよ、そなたは《三日目にして、ゆたけきプティエの地に着くならむ》とね」。
プティエの地とは、ホメロスの『イリアス』にあるアキレウスの故郷で、ここに行くとは「死刑になる」ことを意味します。ちなみに、この時代、夢はダイモーン(霊的存在)が告げて来る健康や病気の予兆、と考えられていました(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』加来彰俊訳、p.35)
ところで皆さんは、目覚めているときの自分と、夢の中の自分は、同じものなのかどうか、などと考えたことはありませんか。つまり、夢の中の自分は、言ってみれば、「もう一人の私」というわけです。プラトンの対話編『テアイテトス』における、ソクラテスと対話相手テアイテトスとの間に交わされた興味深い談論を紹介することにいたしましょう。テーマは、「夢の中」あるいは「心を患っている」ときの「私」と、目覚めている普通の状態の「私」とは同一人物なのか、どうか、ということです(テアイテトス『田中美知太郎全集20』pp.60-62)。
テアイテトス 心を患っている人や夢を見ている人は、一方は自分を神だと思っていたり、他方は翼を得て空を飛んでいたりと思っていたり、だとすると、どちらも本当だと言ってもよいのではないでしょうか。
ソクラテス とくに夢と現(うつつ)については、いろいろ議論があるよ。今現在、自分の考えていることは夢なのだろうか、それともお互いに話し合っているのだから現(うつつ)なのだろうか、君はこの問題についてどう思うかね。
テアイテトス それは実は困っています。いま話し合っていることを、これは眠りの中での出来事だと思うことも出来ますし、さらに、夢の中で夢のことを話し合っている場合はどうかなど、考えが尽きません。
皆さんは、この問題についてどう思いますか。ご自由に談論ください。ところで、AIは夢を見るか、という興味津々のテーマも上がりましたね。その答えが今日、出ますか?
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