前回は、安部公房の『砂の女』を題材に、二種類の自由「脱出への自由」と「留まる自由」について議論しました。富崎さんは、現代の私たちは、抜け出す勇気もなくぬるま湯に安住している「ゆで蛙」である、と「留まる自由」に漬かったまま抜け出そうとしない私たちを辛辣かつコミカルに表現しています。
世界に目を転じると、ロシアのウクライナ侵攻が長引き、アゼルバイジャンとアルメニアの紛争、つい最近にはイスラエルへのハマスによる攻撃など、「神や仏は何をしているのだ」と言いたくなるような惨劇が絶えません。本日は、「世界創造者としての自然⇒摂理」の表現で、「悪を含めてすべては神の思し召し。最後には丸く収まるようになっている」と断じているように読めるカントの著作『永遠平和のために』(中山元訳、光文社)をテクストに、神のことを考えてみたいと思います。
この著作は、フランスとプロイセンがバーゼルで普仏戦争終結のための和平条約を結んだ1795年、平和条約の理想的な姿を求めて、カントが哲学的に考察したものです。同書の第1補説「永遠平和和の保証について」で、カントは次のように書いています。
「永遠平和を保証するのは、偉大な芸術家である自然、すなわち(諸物を巧みに創造する自然)である。自然の機械的な流れからは、人間の意志に反してでも人間の不和を通じて融和を作りだそうとする自然の目的がはっきりと示されるのである。われわれは目的に適ったこのありかたを、…摂理と呼ぶこともできる。この摂理とは、人類の客観的な究極目的を実現するために、この世界の推移をあらかじめ定めている高次な原因であり、深きところにひそむ叡智なのである」(pp.191-192)
カントはアウグスティヌスを引用して、この表現に次のような注までつけています。
「人間も感性的な存在者として自然に属するのだが、この自然のメカニズムには、その存在のうちに、自然をあらかじめ規定している世界創造者の目的を基礎としなければ理解することのできないような形式がある。こうした世界創造者があらかじめ規定しておいたものを、われわれは(神的な)摂理と呼ぶのである。そしてこれが世界の発端におかれている場合には、創設する摂理と呼ぶ。これは<創設者の摂理>であり、「命じられたら、つねにしたがう」(アウグスティヌス)のである」(p.192)
「摂理」は、ラテン語動詞の"providere"からのprovidentiaで表記され、pro(前を) + videre(見る)、から、キリスト教の世界では、あらかじめ先々のことを予見して物事をうまくいくように配慮する「神の意志」のような意味で用いられます。
カントは、「世界創造者としての自然⇒摂理」が、異民族、異宗教間の争いを収めるメカニズムとして働き、結果的に人類は永遠平和への道を歩く、との楽観的な見通しを示しています(pp.208-210)。さて、「偉大な芸術家」とまで表現される「世界創造者としての自然⇒摂理」とは一体何なのでしょうか。
「最後には、神の摂理がもたらしたメカニズムによって、すべては自然に収まって行く」と読めるカントの考え、皆さんはどう考えますか。自由に論議いたしましょう。
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