top of page

3,見るよりも、耳で聴け! 

 前回は、放蕩男「ドン・ファン」の話で盛り上がりました。源氏物語の光源氏は、まさに日本版の元祖ドン・ファンだった、「はじめ男ありけり」で始まる伊勢物語の在原業平もドン・ファンだった、先だって亡くなった相撲界の北の富士親方は「パーティーで登場するとコンパニオンの女性たちが一斉に目を丸くして見やる」姿はまさにドン・ファン、和歌山のドン・ファンと呼ばれた資産家は果たして殺されたの、などと話題満載でした。はては、野球の大谷翔平はドン・ファン的な要素があるか、佐々木朗希にはその香りがある、などと、番外食事会を通じて話題はどんどん広がってゆきました。

 

 前回、オペラの中では娼婦を主人公とするヴェルディの「椿姫」が大好きだという方が、「私は椿姫を鑑賞する時、舞台を観るよりももっぱら音楽に耳を傾けています。しかし、どうも、モーツァルトのドン・ジョヴァンニからは、耳に響く音楽が聴こえてこないのです」とのご意見を伺いました。「聴く」ことに注力するこの方の話は、「オペラの舞台を観るよりも、音楽そのものに耳を傾けよ」、と話すキルケゴールに通じる気がします。

 

 キルケゴールは、視覚よりも聴覚の持つ力について、「声は外面と一致しない内面の開示であり、耳はその内面を捉えるための器官である」と断言し、格子によって告解者と隔てられている聴罪師が、声だけによって告解者の真実の声を聴くことができる」と語り(同キルケゴール著作集1『あれか、これか』第一部上、p.168、テキストp.58)、さらに次のように断言しています。「聞け、情熱の奔放な欲望を。聞け、愛のざわめきを。聞け、いざないのささやきを。聞け、誘惑のうず巻きを、聞け、聞け、聞け、モーツァルトの『ドン・ファン』を!」(キルケゴール著作集同、p.169、テキストp.59)


 『ドン・ジョヴァンニ』における「カタログの歌」に続いて、ロージーの映画でドン・ジョヴァンニと村娘ツェルリーナの二重唱「手に手を取り合って」(第7曲)のシーンを見聴きしていただきましょう。

ドン・ジョヴァンニ あそこで手に手を取り合い

           あそこでわしにいいわと言うのだ

           ごらん、遠くはないのだ、

           ゆこう、いとしいひとよ、ここを離れて

ツェルリーナ    そうしようかしら、いいえそうしてはだめだわ、

           心臓がドキドキするわ。ほんとうに、仕合せになれそうね。

           でも、まだからかわれているのかもね  

………

 

 私は、この音楽に「とろけるような甘い誘惑」を感じるのですが、皆さんは、キルケゴールの言う「誘惑の渦巻き」を感じませんか。この音楽は椿姫のようには耳に響きませんか。実はショパンがこの曲をピアノ曲に編曲しているのです。それも聴いていただきましょう。また、椿姫の「乾杯の歌」を合わせてかけましょう。

 皆さんから、「聴くこと」の力について、是非ともご意見を聞かせてください。

 
 
 

最新記事

すべて表示
10、おしゃべりとかけてソクラテスと解く:その心は?

前回の座談「未完成の美学」も、皆さまの知見が沸騰して、私のような無知蒙昧な輩はただ目を白黒するばかりでした。ジョジ・ハリソンのギターがうますぎて、ポール・マッカートニーが「ぼくの作曲した曲は『へたうま』に弾いて欲しいんだよ」とクレームをつけ、ギター演奏を自分に変わった、とのビートルズ逸話が紹介されました。「へたうま」って、いったいどんな弾き方なんでしょうね。  この曲は、「Ob-La-Di Ob-

 
 
 
9,座談「未完成の美学」

いやあ、前回の座談は凄かった。ひたすら兜を脱いで、私の無知ぶりが晒されて、なんとも恥ずかしき限りです。「生の素動」なる難しい表現で女子学生たちのおしゃべりの本質について述べている私の哲学の師・井上忠先生は「いかなる言葉遣いで皆さんに接していたのですか」との冒頭の問いに、かくなる私は答えることができませんでした。ようやく思い出したのが、いつもテレビで石川さゆりの歌を楽しんでいる姿でした。聖徳大学の同

 
 
 
8,「生の素動」:神々の痕跡と出会う力

音楽を座談のテーマとした前回も、みなさまから多種・多彩なお声で盛り上がりました。「南こうせつの演歌『神田川』は、女性のやさしさを唄ったものだ、という説を読んだことがあります」「えー、そうですか。歌詞にある「ただ貴方の やさしさが怖かった」は男性のやさしさを唄ったものと思っていましたが」「私はクラシックよりもジャズやシャンソンが好きで、銀巴里にはよく行った記憶があります」   「あるときからビートル

 
 
 

コメント


bottom of page