3,見るよりも、耳で聴け!
- 和行 茂木
- 3月9日
- 読了時間: 3分
前回は、放蕩男「ドン・ファン」の話で盛り上がりました。源氏物語の光源氏は、まさに日本版の元祖ドン・ファンだった、「はじめ男ありけり」で始まる伊勢物語の在原業平もドン・ファンだった、先だって亡くなった相撲界の北の富士親方は「パーティーで登場するとコンパニオンの女性たちが一斉に目を丸くして見やる」姿はまさにドン・ファン、和歌山のドン・ファンと呼ばれた資産家は果たして殺されたの、などと話題満載でした。はては、野球の大谷翔平はドン・ファン的な要素があるか、佐々木朗希にはその香りがある、などと、番外食事会を通じて話題はどんどん広がってゆきました。
前回、オペラの中では娼婦を主人公とするヴェルディの「椿姫」が大好きだという方が、「私は椿姫を鑑賞する時、舞台を観るよりももっぱら音楽に耳を傾けています。しかし、どうも、モーツァルトのドン・ジョヴァンニからは、耳に響く音楽が聴こえてこないのです」とのご意見を伺いました。「聴く」ことに注力するこの方の話は、「オペラの舞台を観るよりも、音楽そのものに耳を傾けよ」、と話すキルケゴールに通じる気がします。
キルケゴールは、視覚よりも聴覚の持つ力について、「声は外面と一致しない内面の開示であり、耳はその内面を捉えるための器官である」と断言し、格子によって告解者と隔てられている聴罪師が、声だけによって告解者の真実の声を聴くことができる」と語り(同キルケゴール著作集1『あれか、これか』第一部上、p.168、テキストp.58)、さらに次のように断言しています。「聞け、情熱の奔放な欲望を。聞け、愛のざわめきを。聞け、いざないのささやきを。聞け、誘惑のうず巻きを、聞け、聞け、聞け、モーツァルトの『ドン・ファン』を!」(キルケゴール著作集同、p.169、テキストp.59)
『ドン・ジョヴァンニ』における「カタログの歌」に続いて、ロージーの映画でドン・ジョヴァンニと村娘ツェルリーナの二重唱「手に手を取り合って」(第7曲)のシーンを見聴きしていただきましょう。
ドン・ジョヴァンニ あそこで手に手を取り合い
あそこでわしにいいわと言うのだ
ごらん、遠くはないのだ、
ゆこう、いとしいひとよ、ここを離れて
ツェルリーナ そうしようかしら、いいえそうしてはだめだわ、
心臓がドキドキするわ。ほんとうに、仕合せになれそうね。
でも、まだからかわれているのかもね
………
私は、この音楽に「とろけるような甘い誘惑」を感じるのですが、皆さんは、キルケゴールの言う「誘惑の渦巻き」を感じませんか。この音楽は椿姫のようには耳に響きませんか。実はショパンがこの曲をピアノ曲に編曲しているのです。それも聴いていただきましょう。また、椿姫の「乾杯の歌」を合わせてかけましょう。
皆さんから、「聴くこと」の力について、是非ともご意見を聞かせてください。
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