神なるものが存在するのであれば、「何のために」存在しているのか、アリストテレスの「目的因」思考によって、皆さんの神についての語りが、沸騰してきました。
「神は経済的な豊かさを保証するために存在してきたのではないでしょうか。その典型がキリスト教で、各地の地神の上に君臨して世界へと広がっていったのだと思います」「あるときの読書会で課題図書となった安部公房の『砂の女』のことを思い出します。登ろうとすると崩れ落ちるアリ地獄のような砂の底で女と生活していた主人公は、そこから何とか脱出しようとするが叶わない。最後に、砂の流れの中で身を任せることを選んで行く、というスト-リーです。世の中のさまざまな障害から逃れようとするのではなく、その流れに身を任せよ、と神の声がするような気がします」「沖縄に御嶽(うたき)と呼ばれる場所があります。何度かそこを訪れるたびに、自分自身を包む神霊のような存在を感じて不思議な気持ちになりました」「子供のころ、あなたのやることはいつも見られているからね、と両親から言われて来たことを思います。見られているからを戒めにするのは宗教。見られていないのに、自分を律するのが道徳、だと思います」
どのお話も、さまざまな「風景」が透けて見え、テーマがいかようにも展開していく気がします。ここでは、海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められ、様々な手段で脱出を試みる物語―安部公房の『砂の女』を覗いてみることにしましょう。安部公房自身は、この小説のテーマは「自由」と語っています。
「鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい」(安部公房全集16、新潮社「砂の女―著者の言葉」1962.6.8)
阿刀田高は「人間の自由とは何なのか? 自分たちが接している日常とは何なのか? と、根本から問いかけるような側面があって、男と女の根源にも問いかけるようなことも持っている」と言っているそうですが、「私たちの日常」とは何なのか、「男と女の根源に問いかける」ことは何なのか、考えてみたいですね。安部自身は、別なところで「一人の人間にとっての脱出は、別な人間にとっては、かえって鎖の重さをますことであるかもしれないのだ。私は、私の全課題を、この作品の中で問うてみたい」とも言っています(安部公房全集15、新潮社、「砂の女―作者の抱負」1962.3.30)
興味深いことに、1924年3月7日生まれの安部公房の生まれ月は、1927年3月7日生まれとしている主人公の二木順平と月日が一致しています。ドナルド・キーンは、「安部氏は主人公と同じ月日に生まれたが、私小説とは言いかねる」と言っていますが(『砂の女』新潮社、解説p.276)、私は安部公房という人間の欲望と願望が生み出した「自由をめぐる心の私小説ではないか」が私の結論です。さて皆さん、どのように考えますか。
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