黒のボールペンにワクワクする方、音楽を聴いているときに絶頂感を感じている方、日常性のなかに小さな違いを見つけて高揚感を感じる方――前回も、皆さまからたくさんのお話いただきました。ミーシャ・デフォンスカの虚偽話―8歳のホロコーストの被害者を装って、映画化までされたオオカミと旅する自伝―は何とも凄まじく、驚愕いたしました。
「哲学は、生きるとは何か、を問うもので、エンタテインメントなどとはとんでもない」との手厳しいご指摘がありましたが、どの方のお話も「生きている現実」の写し絵であり、「哲学」の種が存在している、と私は思っております。
本日ご紹介するホイジンガ(1872-1945)は、著書『ホモ・ルーデンス』でつとに知られているオランダの歴史学者・文化史家です。「ルーデンス」は「遊ぶ人」の意味を持ち、考える力を持つことが特徴として名づけられた人類名ホモ・サピエンス(賢い人間)に対し、人類の本質は「遊ぶこと」であるとして、名づけられた新しい概念です。デカルトの「我思う、故に我あり」をもじれば、「我遊ぶ、故に我あり」となりますね。
以前、この講座で実験したことがあるのですが、「考えてください」と声掛けすると、皆さん、ハタと困って立ち往生してしまいます。「考える」は他動詞なので、目的語、「~について」といったテーマを与えられないと、始まらないのです。しかし、「遊んでください」というと、だれでも適当に何かをし始めます。
遊ぶは自動詞で、広辞苑によれば「日常的な生活から身を解放し、別天地に身をゆだねる意。神事に端を発し、それに伴う音楽・舞踊や遊学などを含む」「楽しいと思うことをして心を慰める。宴会・舟遊び・遊戯などをする」とあり、あらあら、エンタテインすることそのものではないでしょうか。
そのホイジンガが、「ソクラテス、プラトンでさえ、ソフィストと同様、道化師、旅芸人の仲間に加えられることは免れない」」(『ホモ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中公文庫、p.358)と言うのです。2世紀ローマ時代の人ディオゲネス・ラエルティオス著『ギリシア哲学者列伝』(加来彰俊訳、岩波文庫、上巻)が伝えているソクラテスと妻クサンチッペのやり取りを見ていると、彼の日常性そのものが、道化師、旅芸人のように見えて来ます(同書p.147)。
彼(ソクラテス)は、喜劇作家たちはこちらから進んで自分自身を話題にしてもらうべきだと言っていた。…初めのうちはがみがみと小言を言っていたクサンチッペが、のちには水をぶっかけさえしたクサンチッペに対して、彼はこう応じた。「ほうら、言っていたではないか。クサンチッペがゴロゴロと鳴り出したら、雨を降らせるぞと」
あるとき彼女が、広場で彼の上衣までも剝ぎ取ろうとしたとき、(そばにいた)彼の知人たちが、手で防いだらどうかと勧めた。すると彼は、「そうだよね。われわれが殴り合っている間、諸君の一人ひとりが、『それ行け、ソクラテス!』『そらやれ、クサンチッペ!』と囃し立ててくれるためにはね」と答えた。
皆さんは、「遊び」が人間の本質である、とのホイジンガの考え方をどう思いますか。また、遊びはどのようにして「哲学」につながると思われますか。ご自由にご議論を!
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