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2,哲学の入り口:他者への「共振」

 前回は、アリストテレスの「徳」(アレテー)まで登場する皆さんのお話に、大いに「共振」させてもらいました。メルケル政権の時代、「アーティストは、生命維持に必要不可欠な存在」と大胆なアーティスト支援策が発表されたことをご教授いただきました。ドイツ政府「アーティストは必要不可欠でありのるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)

 

 また、ニーチェが情動の神ディオニュソスに注目し、理のソクラテスを批判した著作『悲劇の誕生』について、「語るのではなく、歌うべきだった」と後に痛烈な反省文を書いていることも指摘されました。「となりのトトロ」など多くの宮崎駿作品を作曲している久石譲が音楽について語る内容に「哲学を感じる」とのご意見もいただきました。「なんのために生まれて何をして生きるのか。こたえられないなんて、そんなのはいやだ」とのアンパンマンの歌は、まるで哲学そのもの、との指摘もありました。


 「心に響く」「直観」といったキーワードも登場し、プラトンの『国家』にある音楽の位置づけについて、疑義も出ました。松戸・森のホールでベートーベンの交響曲七番を聴いた話も登場しました。ベートーベンは、スケッチ帳に「モーツァルト交響曲から盗った」といった記述を残しており、実際、交響曲5番「運命」3楽章はモーツァルトの交響曲40番の4楽章と似通った主題で始まっています。


 本日は、音楽評論家・吉田秀和の著作『モーツァルトを求めて』(白水ブックス)における、モーツァルトの音楽についての体験的音楽論がテーマです。母の死への想いが込められている『戴冠ミサ』の冒頭のキリエに「おかあ、さん」の言葉を感じ取り(p.17)、ピアノソナタ『ハ短調k457』に「孤独な絶望」をかぎ取り(pp.24-25)、そして、ベルリン・オリンピック女子水泳でのアナウンサーの「前畑ガンバレ!」の声とともに耳に響いてきたビヤホールの蓄音機から流れるヴァイオリン協奏曲第七番、のちに偽作と判明する「何か違うがモーツァルト的なもの」が気になったのでした(pp.165-166)。


 吉田は著作『モーツァルトを求めて』の初版「あとがき」に、次のような言葉を残しています。

「モーツァルトの音楽のなかには、あるとき、これは人間が創ったものなのだろうか、と考えてみたくなるような瞬間がある。たとえば『フィガロの結婚』のお終いの場面とか、『ジュピター交響曲』のフィナーレだとか。つまり、芸術というのは、人間と人間以外の誰かが与えてくれたものとの接触点にあるのではないか、「神の声」というとちょっと大袈裟だが、神が人間に創らせているという意味で、彼の意志がはたらいているような、そういうものではないかと感じさせるところがある」(『モーツァルトを求めて』白水社、p.251)


 『フィガロの結婚』の「お終いの場面」とは、アルマヴィーヴォ伯爵が伯爵夫人に許しを乞うシーンで、「苦しみと狂気のこの一日を愛だけが終わらせることが出来る」でエンディングに向かうところです。『ジュピター交響曲』は、「ド、レ、ファ、ミ」で展開する通称「ジュピター音型」と呼ばれるフィナーレにより、怒涛のように終わっていきます。


 「驚き」が哲学の始まりだとするアリストテレスに対して私は他者への「共振」が哲学への入り口だと考えます。さて、皆さんは誰のどの話に共振するか、お話を!

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