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1,音楽は、筆舌に尽くせないもの

 著作「ほとんど無」で知られるフランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレビッチ(1903ー1985)は、「分類できない哲学者」とまで言われる稀有な存在です。ピアニストでもある彼は、音楽のあるべき形をソクラテスに語らせるプラトンの対話編『国家』などからの引用が多々見られる音楽を題材とした哲学論『音楽と筆舌に尽くせないもの』(仲澤紀雄訳、国文社)を著しています。

 

 『国家』第三巻の「音楽・文芸による教育の目的」における引用「音楽は魂の内部に侵入し、このうえなく激しく魂を捉える」(301d)を取り上げている第一章「音楽の<倫理>と<形而上学>では、航海中の人々を美しい歌声で惑わす海の怪物セイレーン(上半身が人間女性で、下半身はの姿)と竪琴の音色で冥界の人々まで魅了するオルフェウスのどちらが音楽の本質を表しているかについて触れ、オルフェウスに軍配をあげています。


 この中で、フランツ・リストが交響詩『オルフェウス』の序曲で、古代ギリシアの詩人ピンダロス(BC5~6世紀)の「祝勝歌集」をもとに(ピンダロス『祝勝歌集/断片集』内田次信訳、京都大学学術出版会、p.159)、オルフェウスを<歌の父>として「岩石をも和らげ、どう猛な野獣をも魅了し、鳥や滝を黙らせ、全自然に芸術の超自然の祝福をもたらす」存在としていることを紹介しています。音楽の本質は、人々の心に清純な幸福感をもたらすものである、が、ジャンケレヴィッチの基本的な考え方であると言えるでしょう。


 第二章の12では、「言語に絶するものと筆舌に尽くせないもの」の小見出しで、ジャンケレヴィッチは、「音楽は表現できないもののために作られている」とのドビッシーの言葉を紹介しながら、「音楽の神秘は言語に絶するものではなく、筆舌に尽くせないものだ」と語ってゆきます(p.88)。「言語に絶する」とは「表現不能」ということですが、 「筆舌に尽くせない」とは、文字どおり、どれほど「書いたり」「しゃべったり」しても、伝えきれない、ということですね。

 

 彼は、言語に絶する例として「死」をあげ、「死の暗い夜がふみいることのできない暗闇であり、絶望に導く非存在だからであり、越えることのできない壁がその神秘をわれわれからさえぎるからだ」とまで書き、「筆舌に尽くせないもの」は、「言語に絶する」のまったく逆で、「それについて限りなく、終わることなく言うことがあるから、表現できないのだ」と、「神の神秘」に例えているのです(pp.88-89)。


 ジャンケレヴィッチは、次のようにも語っているとされます(引用文献調査中)。

「哲学は音楽のようだ。それはあまりにもわずかにしか存在していなくて、なしですませてしまうのもごく容易い。でもそれがなければ、何かが足りない。…哲学も、音楽も、喜びも、愛もなく、生きていくことはできる。けれども、それはあまりよいものではない」

 

 今回の講座では、モーツァルトをソクラテスと対比しながら、「音楽は哲学のように生きる力を与え、哲学は音楽のように生きる力を与えてくれる」―そのような存在であることを、示してゆきたいと思っています。


 さて皆さんは、「哲学も音楽も、なくても生きていける」ものとお考えですか。

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