前回の講座「100歳からの哲学」最終回で、マルティン・ブーバー(オーストリア出身のユダヤ系哲学者。1878~1965)の神との対話に踏み込んだ『我と汝』(野口啓祐訳、講談社学術文庫)における「問いかけから始まることになると思います。お楽しみに!」で終えました。
『我と汝』の「汝」は永遠の絶対者、つまり「神」のことであり、「我」とは死によって区切られている有限の存在である「私たち人間」のことです。
「われわれにとって、いついかなるときも<なんじ>たることをやめないのは、唯一の<なんじ>、すなわち神のみである。神を知るものは、かえって神と人間とをへだてる距離のあまりにもはなはだしいのを知って、索漠たる気持ちを味わうであろう。しかしわれわれはこうした気持ちを味わいこそすれ、「神なし」とは絶対に考えない。なぜなら、いつも存在するとは限らないのは、実はわれわれのほうなのだから…」(p.160)
神との距離を縮め、神と一体化するための「大門」こそが、日常生活そのものにあり、言語による「問い」と「答え」を通じて、<なんじ>という完全な現実に達するようになる、とブーバーは言い切ります(pp.165-166)。そして、ひとと神との比喩的な表現として、男と女の間の次のような表現に求めるのです。
男がその妻とともにあるときは、永遠の丘へのあこがれが、かれらをその息で包む。
さて皆さんは、このブーバーの禅問答のような神についての考え方について、どのように考えますか。男が妻にあこがれる「永遠の丘」とは何でしょうか。また、そのあこがれを包んでくれる「永遠の丘」の息、とは何なのでしょうか。「男」と「女」、「人間」と「神」との応答の違いは、神の答えにおいては、宇宙のすべてが言語と化してその姿をあらわすということだけである、とブーバーは結論しています(p.166)。
ブーバーは私たちがおしゃべりして語り合う「神」を「それ」と呼び、個々の人間が「出会う」神的存在を「汝(なんじ)」と呼んで区別しています(p.162)。そして、『我と汝』を読み解く上でのキーワードが「出会い」であることが、ブーバーが絶対者についての思想の遍歴を高山のせまい尾根を伝わって進んでいく登山者にたとえた次の一文(p.224)によく現われています。
この尾根にいてたしかなのは、ただ、まだだれにもあらわにされていないでいるなにかと出会うということだけである。
「神と呼ばれる存在」とは「何者」なのか、の問いは、ひとがひととなって以来、誰もが一度は問うた、「問い」であることは間違いないと思います。「花を愛した古代人」として前回紹介した6万年前の古代人ネアンデルタール人たちもまた、このよくわからない存在と「出会い」、「あなたは何者なのか」と問うていた、と考える事は、楽しい推測です。
テクストとして皆さんにお渡ししている『木から落ちた神さま』は、著者としての「わたし」が「汝」の正体を求めて、漂流したその記録、とでも言うものです。その頁をめくりながら、「汝」とは何者なのか、皆さんとご一緒にワイワイ楽しくおしゃべりを重ねましょう。
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