最終回は、テクスト『木から落ちた神さま』の「第九章 小さな神々」(pp.145-pp.159)から、前回、お一人の受講生から質問の出た「神の観測装置としての人間」についてお話させていただきます。
鉛筆画家・木村晋さんが月山の湯殿山注連寺天井画に描いた『天空の扉』は、両手を合わせた合掌の図です。この絵について芥川賞作家・村田喜代子さんは「祈りのかたち 手の万象―鉛筆が刻む皺」のタイトルをつけて語っていますが、「合掌図は生命の根源的な形態」であり、木下自身の言葉「人間の何かあるべき本来の姿、そういうものが合掌であると思えてきた」を引用しています(村田喜代子『偏愛ムラタ美術館-発掘編』平凡社,pp.164-166)。
注連寺といえば、作家の森敦が昭和26年に訪れてひと冬を過ごした体験をもとに執筆した作品『月山』(昭和49年に芥川賞を受賞)で知られています。巻頭に掲げられている「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」の言葉が、この小説のすべてを物語っている、と言ってもいいでしょう(森敦『月山・鳥海山』文春文庫、p.10)。生きていること(生)が何なのか知らないのに、死んでいること(死)が何かなど、知るわけがないーまるで禅問答のような表現ですが、当たり前と言えば当たり前、ですよね。生と死は背中合わせの関係、つまり生/死、とも表現される関係にあります。木下晋の「合掌図」は、死を内側に納めた「生命の根源図」である、と思うのです。
雪山で死んだ人間から内臓を取り出しミイラにするなど、地元で語られる怖い話まで登場する小説『月山』は、ひと冬を過ごした主人公の体験談から、夢(ゆめ)幻(まぼろし)を見ているような感覚に読者を陥れます。森敦はしばしば「幽玄の論理」なる言葉を口にしたと言います(同書、pp.351-352、小島信夫による解説)が、夢幻の中にいる自分を感じている自分がいるという、「現実と夢」なる「境界存在」として自分を意識させる論理が、多分「幽玄の論理」なのではないでしょうか。もっと言えば、生と死の間にある状態、生きているが死んでいる自分を意識するということ、この奇妙な感覚が、能楽師・世阿弥の能の世界に集約されている「幽玄の論理」だと思うのです。
さて、神の世界を感じるとは、どういうことなのでしょうか。それは、有限な人間(死すべき存在)が、無限なる神(死なない存在)を身に受けるということです。そしてそれは、哲学者・西田幾多郎が説いた、まったく相反する存在が一者として同一化した状態「絶対矛盾的自己同一」に通じる状態だと思います。
ウイリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』で報告されている「無限者との合一感」(『木から落ちた神さま』pp.150-153)は、西田の言うこの状態が現実化したものなのではないでしょうか。
神と呼ばれる存在は、実在する何かある「無限の場」であり、人間という存在がその場を繰り込む「装置」として機能し、「啓示」となって現れる、とするのが私の本の趣旨です(同書pp.154-156)。さて皆さん、ご自由にご議論下さい。
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