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8、哲学とは、言葉を楽器のように演奏することである

 前回、お一人から「普段話すことのない自分のことをつい話してしまい、何かこの講座で自分をはがされている感じがします」とのお言葉をいただきました。実は、「自分はがし」は、ソクラテスのお得意技で、はがすことによって、自身を見つめ直しするきっかけを相手にあげるのです。


 お一人が、『暇と退屈の倫理学』4頁の「哲学とは問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す試みである」をとらえて、本講座のテーマ「哲学はエンタである」との関連が分からない、と問いかけてくれました。この答えは簡単で、「哲学にエンタ性を見ること」は、まさに哲学そのものに内在する「問題の発見」であり、そこから、哲学とは何かについて、新しい概念を作る出そうとする、試みなのです。ここで、「概念」などという言葉を使うと難し過ぎるので、簡単に言えば本質を表現する考え方、見方、のことです。


 「哲学はエンタである」という概念提示は、哲学は小難しいものではなく、楽しく愉快なエンタテインメントとして、心をウキウキさせる頭の体操であり、「他者」と対話する場は、いわば「言葉で踊る」ようなものなのです。


 『饗宴』の場でソクラテスは、「楽器を使わず、言葉だけで神のごとく人を憑かれた状態にする」と、アルキビアデスは語っています(プラトン『饗宴』中澤務訳、光文社文庫、pp.166-171)。宴会(シンポジオン)には、座を盛り上げるための笛吹き女が呼ばれるのが常で、半人半獣の山野の精であるサテュロスの一人で笛の名手マルシュアスの楽曲は、下手な笛吹き女でも「人を憑かれた状態にする」と、アルキビアデスは語り(同p.166)、ソクラテスの言葉による“演奏”はそれに続いて紹介されたものです。ちなみに、クセノポンの『饗宴』(船木英哲訳、文芸社)には、笛吹き女に加えて、踊り子と竪琴演奏者が、座を盛り上げている様子が描かれています(同書pp.37-41)。


 絶えず戦時下と平時の繰り返しだった古代ギリシアでは、忙殺の戦時あけに訪れる平時の時間を、どう過ごすかが課題でした。この、いわば空いた時間「スコレー」(σχολή)をどのように過ごすかが大事だ」とアリストテレスは言い、とくに「音楽」の重要性を強調して、ホメロスの詩の一節にあるオデッセウスの言葉「最善の楽しみは、楽人の歌うを聞き入るときのそれである」を引用しています(『政治学』岩波書店、8巻3章1338a20、p.331)。

 

 ホメロスの詩を、竪琴などで演奏し原語で謳う「歌姫」Futabaを紹介しますので、アリストテレスの「楽しみ」を味わってみましょう。


 我々は我々で、ソクラテス流の「言葉の演奏」を楽しみたいものですね。この講座の皆さんとの丁々発止は、いわば「言葉の合奏」。「自分はがし」でも、「相手はがし」でも結構。存分に言葉のかけ合いをお楽しみください。


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