私が今回の講座のテキストとして皆さまにお渡しした
「持つ」の形而上学-フロム、芭蕉、アリストテレス、ハイデガー、レヴィナスをつなぐ点と線(『聖徳大学言語文化研究所 論叢』10)
で引用しているエーリッヒ・フロムの『To have or To be?』(金星堂)は、紀伊國屋書店から「To have or To be?」を副題として『生きるということ』のメインタイトルで、2020年9月に再出版されています。
フロムの主張は、多くを持つことが幸せにつながるという大衆消費社会の「美学」が挫折し、「持つ」ことよりも「どう生きるか」、つまり「存在(ある)の仕方」を求めるべきである、に極言できると思います。
冒頭に以下のように、三人の歴史上の人物の言葉が飾られています。老子(中国春秋時代~紀元前6世紀)と神聖ローマ帝国の神学者マイスター・エックハルト( 1260年頃 - 1328年)、そしてマルクス(1818年5月5日 - 1883年3月14日)です。
老子:なすべき道は、あることである。
エックハルト:人が考えるべきことは何をなすべきかではなく、自分が何であるかである。
マルクス:君があることが少なければ少ないほど、
君が君の生命を表現することが少なければ少ないほどーー
それだけ多く君は持ち、それだけ多く君の生命は疎外される。
まずは、フロムがこの三人に共通のメッセージを「ある」に置いていることを、そのまま認めることに致します。老子の根本思想「道」が説く「無為自然」は、「あるがまま」ですから、この引用は私達にはごく自然に受け取れますが、エックハルトとマルクスについては、理解が難しく感じます。まず、エックハルトの言葉として紹介されている「人が考えるべきことは何をなすべきかではない」との一文には、異議があります。なぜなら、「何であるか」は、「何をしているか」に現われるからです。
マルクスについては「君があることが少なければ少ないほど」とある箇所は、表現「あること」をマルクスがいかなる意味合いで使っているのか、まったくわかりません。同様に、「君の生命を表現することが少なければ少ないほど」も、「生命を表現する」とはいかなることを意味しているのか、不明です。
エックハルトとマルクスについては、フロムが本文の中で詳しく解説しているので、いずれ詳論することに致します。本日は、各人に「あること」「ないこと」or「持つこと」「持たないこと」をテーマとして勝手に、自由に、お話していただきましょう。
私は、シェイクスピアの「ハムレット」における有名なセリフ「To be, or not To be ,That is the question」を思い出し、「To have or To be? That is the question」なる一文を考えました。
次回は芭蕉の句「よくみればなずな花さく垣ねかな」をテーマに、「ある」と「持つ」について考察します。私は一句「よく見れば花衣ごとき哲学講座」を詠みました。季語は春の「花衣(はなごろも)」です。皆さん、次回までに遊び心で一句お願いします。
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